子どもはおやすみ

子育てを通じて感じたことと絵本の紹介

絵本の紹介「どんなかんじかなあ」

自分以外の人の気持ちはなかなか分からない。いわゆる本心は他人にはつかめないというのがその原因だろうが、そもそも他人の状況をシリアスに受け止めることもまた難しいということがある。お恥ずかしいことに我が家では夫婦喧嘩は絶えないが、それは(主に私が)相手の「痛み」的な感覚を軽視することに起因することが多い。例えば前に妻がツワリでしんどい感じの時も、妻がすぐに横になってしまうことに私の方がイライラしてしまい、家庭がギスギスしてしまうなんていうことが頻繁にあった。こんなことを書くと2ちゃんの生活系まとめサイト(ちなみに私は好んでよく訪ねる)のようなところではすぐに格好の的になりそうだが、理性がなければ他人の感覚を真剣に想像することは難しいものである。

 

最近、ヘレンケラーの幼児向けの伝記を何回か娘に読んでいる。ヘレンケラーの境遇は、自分の子供にはまだ壮絶すぎるかもしれないと最初は思ったが、娘はなかなか興味深そうに聞き入っている。もともと本屋の回転棚に置いてあったものを子供がたまたまチョイスしたもので、特に親として意図があって読ませたわけではない。幸いにして娘は視覚・聴覚とも健常で、言葉もすでに十二分に操っている。そのため、そうでない人がどうであるかということについて考えたことは多分なかっただろうと思う。というよりも、そもそも他人の気持ちを推し量るにはまだまだ幼すぎるという年齢であるとも言えるだろう。ただ、ヘレンケラーの話を知って、そうした「自分とは違う感覚」の人のことを少しは考えるようになったように見えるし、逆にその延長として、他人の気持ちについても想像を働かせる回路を形成しつつあるようにも見える。

 

という前置きで今回紹介したい本は「どんなかんじかなあ(中山千夏和田誠)」だ。

どんなかんじかなあ

どんなかんじかなあ

 

 主人公の男の子には、目が見えない友達、耳が聞こえない友達、両親を亡くした友達がいる。それぞれの友達がどんな風に感じているのかを、この男の子は真剣に考える。そしてその考えたことについて自分の友達と話してみるという内容だ。

私もそれこそ幼い頃にヘレンケラーの伝記は読んだし、同級生に視覚障害の子がいたこともあったし、もちろん街でそうした方をよく見かけるので、目が見えない人の気持ちについて考えたことがないわけではない。自慢にもならないが、自分が自転車を漕いでいて近くに白杖の方を見かけたら意図して恐怖心を与えないように努めてもいる。でも、この男の子の考えるほど真剣に、じっくりと、目が見えないこと、耳が聞こえないこと、親がいないことについて考えてはいなかったと思わされるような考え方をこの男の子は示していく。

そして、この男の子がそれほど「考える」ことができるのにもまたわけがあったというのがオチになる。そのオチのつけかた、つまり、「この男の子のような子」がどうしてそこまで考えたりするのかということについて、なるほどと思いつつも、まったく自分には思いあたらなかったことに気づかされる。いかに自分が他人の感覚について無知であるかを再認識させられた本であった。 

娘もヘレンケラーをすでに読んだことがあったので、この本も興味深そうに聞き入っていたし、いくばくかの思いを馳せていたように見えた。

 

このところ、娘は保育園での出来事を話せるようになって、お友達の様子も聞かせてくれるようになったのだが、まだまだ自分と違う価値観の子供の存在には戸惑ったりするようだ。たとえば、先日も、「ワタシは難しいゲームが好きなのに、誰々くんは簡単なゲームの方が好き」なんて言ってきた。そもそもそう言う娘自身も、少し難しいゲームだとすぐに飽きてしまうように見えるのだが、まあそれは置いておいて、いろいろな子供がいて、みんないろいろなことが好きなんだよ、的なことを親として私は諭す。しかし、そんな親である自分も、決して「いろいろな人」のことはわかっていないんだということは自覚している。

 

ヘレン・ケラー (世界名作ファンタジー30)

ヘレン・ケラー (世界名作ファンタジー30)

 

 

娘「獅子舞の中には人がいる」

最近の保育園では新年に獅子舞が披露されるらしい。娘が一昨年いた保育園でも、去年いた保育園でも、今年の保育園でも獅子舞のイベントがあったので、そういうことだと思う。ちなみに、私自身は幼稚園に通ったが、そうした記憶は残っておらず、それはあったかもしれないし、なかったかもしれない。

私などは獅子舞に大した思い入れもなく、またそこに込められた意味もよく知らないので、獅子舞を見ても「お、なんかやってる」くらいの感想しか抱かない。しかしどうやら子供はこれを見て結構怖がるようだ。実際、一昨年、昨年と娘は獅子舞を見て大泣きしていたらしい。保育園の方としても、そうした反応を面白がることも含めて1つの節目のイベントとして企画していることと思う。

 

それで、先日、娘の保育園でも獅子舞があったのだが、どうやら今年は泣かなかったらしい。それどころか「獅子舞の中にひとがいた!」「食べるマネをしているだけだった」と言っていた。大人になった。。やはり嬉しいような寂しいような、というところだ。今いる保育園では年長さんもいっしょなので、もしかしたら、ショーの最中に、お兄さんお姉さん達が「中にひとがいる!」とマジックのタネを見破ったかのように大声で叫んで、それに娘も納得し学んだのかもしれない。いずれにしても子供の成長を感じた瞬間だ。あるいはそれを親が体感することもこうしたイベントの目的なのかもしれない。

ただ、そうは言っても、前記事のサンタクロースも、今からすぐにやってくる節分の鬼も、去年初めて行ったディズニーランドのミニーちゃんも、みんな正体が「ただの人」であることを娘はまだ知らない。なので、これらについてはまだまだ娘の子供らしさを楽しめる、、かもしれないし、それももうすぐ終わるのかもしれない。

 

さて、こうしたイベントでの自分の感情を振り返って、ふと、親にとっての子供の無垢な子供らしさとは何なのかということを考えずにはいられない、本来であれば、単純に成長を喜んでも良さそうだし、子供がこうした幻想に騙されていることを嘆いてしかるべきところかもしれないのに、どういうわけか私は子供に無垢であって欲しいという気持ちを少なからず抱いている。もしかしたら、今の娘がパパである私に懐いてくれいているのは、娘が無垢であるがゆえであるという風に無意識に感じていて、それにもいつか終わりが来るということを恐れているのかもしれない。(もっとも、理性的にはそうした時が一刻も早く来て子育てを卒業したいと思っているつもりだが。。)一方で、無垢を愛おしく思う気持ちは(自分の性欲のように)うまく説明できない感覚の一つのようにも感じる。そうした愛おしさの感覚には親を親として繋ぎとめる生物学的機能がある、なんていうともっともらしいが、それはそれでピンとこない。娘から無垢さが消えた時にこの感情の正体も見えてくるのだろうか。

サンタクロースって本当にいるの?

もうすぐクリスマスだ。ということで私も子供のためにプレゼントを用意しなければいけない。去年はハーモニカを買った。その頃、娘はムーミンをよく読んでいた。ハーモニカはムーミンの友達スナフキンの愛用の楽器だ。なので娘にも馴染みのあるものだったが、実際にその実物を手にすると、自分もスナフキンみたいになれると思ったみたいな様子だった。そして上機嫌に演奏(と言っても音を鳴らすだけだが)してくれたので私としても嬉しかった。値段の割に効果的な一品だったと思う。

YAMAHA(ヤマハ) ハーモニカ シングル YH-15SN

YAMAHA(ヤマハ) ハーモニカ シングル YH-15SN

 

もちろんこのハーモニカはサンタさんが届けてくれたことになっている。ときたま、ついうっかり「パパが買ったハーモニカどうしたの、、、」みたいな台詞を口にしそうになったりするが、これはまだご法度だ。

去年は朝起きてプレゼントを見るなり、「サンタさんやっぱり来てくれたんだ!」と言っていた。ちなみにこれは名作絵本「ノンタン サンタクロースだよ」のノンタンの一台詞そのままで、そのときのノンタンに成り切って使ったみたいだった。 

ノンタン!サンタクロースだよ (ノンタンあそぼうよ (7))

ノンタン!サンタクロースだよ (ノンタンあそぼうよ (7))

 

 

ということで、娘は今年もサンタさんの到来を待っている。娘はまだサンタの正体が私およびママとジジババであることをまだ知らない。遅かれ早かれその正体を知る日は来ると思うが、不思議なもので、なんとなくその日がまだ先のことであって欲しいというのが今の私の気持ちだ。

思い返せば、私が子供のときも、クリスマスの朝にプレゼントが枕元に置いてあるのを見て嬉しくなったものだった。一方で、小学校の中学年くらいのときには親に向かって「サンタがいるなんて思っていないけどプレゼントくれ」みたいなことを言って、少しばかり親をがっくりさせたらしかったことも覚えている。

まあ娘にはサンタクロースにワクワクする気持ちをもう少しばかり楽しんでもらいたいというだけではあるのだが、一方でこの私の願望は子供には子供のままでいて欲しいみたいな気持ちの現れでもあるような気もする。先日アマゾンプライムでキティちゃんのアニメを娘と見たが、サンタは本当にいるのかという題材を取り扱っていた。「おいおいそんな重要な事柄を軽々しく子供の目に触れさせてくれるな」という気持ちになってソワソワしながらの鑑賞になってしまった。途中サンタなんかいるわけない的な流れで話が進んだが、結局の結論は私の解釈では曖昧な感じに終わったので安堵したのだった。子供の成長を受け入れられる親になりたい。