子どもはおやすみ

子育てを通じて感じたことと絵本の紹介

子供が19まで数えられるようになった

ここのところでうちの子供も数を1 9くらいまで数えられるようになった。20以降はまだあやふやだ。生後間もなくの頃は、「数字は嘘をつかない」という信念のもと、子供には算数や数学に強くなってもらいたいと思っていたので、何かと無駄に数を数え上げて聞かせていたが、何の効果も感じられなかったので遠の昔にそんな習慣もやめてしまっていた。まあそれでも子供の生活にも何かと数が登場するということでだんだんと学んでいったらしい。

 

振り返ると数を子供に教えるというのは思った以上に難しいことだった。で、結局私はほとんど何も教えていない。子供は母語と同じように自然と身に付けたみたいだと言うよりほかはない。もちろん私自身がそれをどのように学んだかという記憶もまたほとんど残っていない。父に、小学校に上がる前に足し算を教えて貰った記憶がかすかにあるが、数の概念についてレクチャーを受けたような記憶はまったくない。人が知識を身につけるときは大抵こんなものなのかもしれない。大人になると体系だった知識の方が時間の節約になるということでありがたいと思いがちだが、もしかしたらそうした学び方は本能的には最適な方法ではないかもしれない。

ということで、これから書くことは誰の役にも立たないかもしれない。ただ数をまったく知らなかった赤ちゃんが数を数えられるようになるまでの学びの様子を観察してきて、普段は気にも留めない数の難しさについて気がついたことがあったので今日はそれを忘備録としてまとめておく。

 

1 数を数える前のステップとしてカテゴリー分類がある。

 数は数に過ぎないのでそれにはカテゴリーもクソも本当はないのかもしれないが、実生活上では、まったく別のカテゴリーのものを一緒くたに数えたりしない。ビールの缶が3本とクレヨンが3本あっても、それで6本ということにはなかなかならない。もちろんこの場合も何かが6本あると言っても良いとは思うが、大人は無意識にこうしたカテゴリーわけをしている。そういわけで、そもそも分類についてコンセンサスのできていない子供にこうした数の話をしようとしても、なかなか話が通じない。カテゴリー分類ができるようになって初めて数という概念はスタートする。

 

2 数字は数を表さない。

 絵本やら何やらで数字に触れたり学んだりする機会が子供には多いが、それが数を表していることは自明ではない。ローマ数字の i, ii, iiiならあるいは数を表していると言えるのでその結びつけは簡単かもしれないが、アラビア数字の 1, 2, 3 と書かれてもこれが数であると説明するのは難しいだろう。従って、たとえば3と6でどちらが大きいのかを判断するのもまた簡単ではない。

 

3 日本語は数の呼び方が多すぎる。

 数がなんとなくわかってきたら、最初は1から10まで数えられるようになるのが普通のステップだろう。ここで難しいのは、日本語では同じ数字に対して複数の読み方があることだ。なので、ある人は「いち、に、さん、し、、」なのに別の人は「いち、に、さん、よん、、」だったりするし、さらに「ご、ろく、しち、はち、、」が「ご、ろく、なな、はち、、」になったりする。おかげでうちの子はいつも7が数えられなかった。まあいつも正しく6の次に8がきていれば、それほど大きな問題にはならないかもしれないが、本人も混乱しているためか、6の次に9がきたり、6をぬかしてしまうこともあったりでなかなか一定せず、しばらくここで苦労していたようだった。

 

4 10進数は自明ではない

 私が最初に10進数やら2進数という概念を習ったのがいつだったのかは思い出せないが、そのときわけがわからなかったのをよく覚えている。結局私の日常生活にはこうした概念もほとんど登場しなくなってしまったが、最近になって10以降の数字を子供に教えようとするときにああ10進数ていうのは決して自然なものではないなと思ったものである。まあこれについては、うちの子もまだ19までしか満足に理解していないこともあり発展途上の課題である。

 

5 数は比較に便利である

 さて、上の4つがわかればだいたい数についての大人のルールをわかったことになるだろう。で、うちの子が数をもっぱら利用してくる場面がある。それは食べ物の数を数えるときだ。どういうわけかうちの子は昔から、お菓子などの自分の取り分が父である私より大きくならないと気が済まないという性格があって、たとえばパンを2つに割って分けるときも精度よく大きい方を言い当ててそれを自分のものとしていた。まあ、こうしたカタマリのものなら大きさを比較するのが手っ取り早いが、たとえばブドウの巨峰とかになると、数を数えないと大小がわからない。ということで、最近はその季節であるということもあって、巨峰やマスカットが出たときには、自分の分と私の分とを必ず数えるというのがうちの子供の習慣になっている。これはブドウだけではなくてりんごとかについてもそうで、自分の分が私のものよりも少ないと気がすまないらしい。と言いながら、親として果物を食べさせ過ぎるのもあまりよくないと思っているので、こういうケースでは、1つ1つのピースを小さくして数だけ増やしてごまかしたりするのだが、うちの子はだまされているとはまだ知らず、数さえ大きければ満足のようだ。

 まあしかし、こうした子供の数の使い方を見ると、いかに人が嫉妬深いというか、他人との比較で自身の幸せをはかる者であるかを思い知る。あるいは数という概念もそうした煩悩があったからこそできたものかもしれないなんて思ったりする。

 

 以上が、私がうちの子の数を学ぶ様子から感じたことだ。最後に、子供が数を理解する上を助けになった感じがする絵本を、紹介がてらリンクだけ貼っておく。

 

ノンタンぶらんこのせて (ノンタンあそぼうよ (1))

ノンタンぶらんこのせて (ノンタンあそぼうよ (1))

 

  

11ぴきのねことあほうどり

11ぴきのねことあほうどり

 

 

100かいだてのいえ

100かいだてのいえ

 

 

 

 

 

 

絵本の紹介「おもちゃのくにのゆきまつり (こみねゆら)」

絵本を子供に読み聞かせるのは、楽しいことでもあるのだが、時になかなかしんどいことでもある。私からすればつまらないけれど、子供にはどういうわけかウケの良い本というものはたくさんあって、私が疲れている時などにそうした本(でかつ文章が長い本)を本棚から子供がピックアップしてくると「うーつらい」という気持になる。例えば「どんぐりむら」シリーズなどは私にとってはその典型で、特に感じることもないようなお話が長々と続くだけに思えるのだが、子供にとってはそれはよく書き込まれた絵の連続とめまぐるしい話の展開とでとても面白いものと感じられるみたいだ。まあ絵本は子供に受けてナンボなので、そうした本こそがむしろ良作だと呼ぶべきなのはわかる。だがやはり朗読者の大人も読んでいて楽しい本であることに越したことはないだろう。

 

そういった意図で、私自身が面白いと感じた本もこのブログではいくつか紹介していきたい。で、今日は「おもちゃのくにのゆきまつり by こみねゆら」を紹介する。どうやら絶版のようでいつも埋め込むアマゾンのリンクはない。(と思ったら後日リンク貼付できました。)ちなみに私は図書館で借りただけだ。

 

この本を読んだとき、絵本でここまで表現できるのかと素直に感嘆したのだった。ストーリーは、主人公の男の子が大切にしているウサギの人形の腕が少し壊れてしまうところから始まる。すると「おもちゃのくに」からそのウサギの人形に招待状が届いて「ゆきまつり」に参加する。行ってみるとそこはたくさんのおもちゃが暮らすところで、「ゆきまつり」には主人公たちの他にも多くのゲストが来ていた。おもちゃのくにの人形ガイドさんに連れらてゆきまつりを楽しんでいると、男の子はクマのぬいぐるみが自分をじっと見ていることに気がつく。それは小さい頃にはよく遊んでいたけれどいつのまにかいなくなった昔のクマのぬいぐるみだった。。

 

面白いのは"今トモ"のウサギの人形と"元トモ"のクマの人形との対比だ。別に今カノ元カノではないのでドロドロした嫉妬も何もない。3人でゆきまつりを楽しむ。しかし、そのおまつりももう終わりというときに、元トモのクマ人形は、男の子に、自分はおもちゃのくにに残る、すごしやすいから、と告げる。それを聞いた男の子はもしかしてウサギの人形も、、と心配するが、こちらは「さあ帰ろう」と言って、一緒に帰る。ウサギの人形は雪まつりの間におもちゃ病院で壊れた腕を治してもらっており、家につくとすっかり元どおりになっている。そして男の子はまたウサギの人形と一緒に遊べる喜びをかみしめるのだ。

 

結果的にこの「おもちゃのくにのゆきまつり」は男の子とウサギの人形との絆をつなぎとめ深めた存在となった。それがなかったら、もしかしたら男の子はウサギの人形とも疎遠になっていたかもしれない。ある意味ではクマの人形がそうしたアナザーストーリーを示唆する存在だ。こうしたいつの間にかいなくなったおもちゃというのは何となく心にひっかかるものだ。いつの間にか興味を失ったことへの申し訳なさみたいな感覚もあるし、昔の自分の感覚を忘却してしまったような寂しさも感じる。私ももうオッサンなのでそうした対象がおもちゃであることはもうほとんどないのだが、代わりにそれこそリアルな友達付き合いとかがそういった感じで変遷していると言えるかもしれない。そして、いままさに我が子が自分のおもちゃや人形で愛おしそうに遊んでいるのを見ると、これらのおもちゃもいつかどこかに消えてしまったり遊ばなくなったりするのだろうなと思って、親ながら一足早くノスタルジックになるものだ。「おもちゃのくにのゆきまつり」は、そうした「大事な物」とのつながりを見極めるトライアウトみたいな場所だったのかもしれない。

ではではそう考えるとクマの人形はどうしてこのおもちゃのくににたどりついたのか、そしてどうしてウサギの人形にこのタイミングで招待状が届いたのか、など描かれていない謎についてさらに頭も巡らせた。解釈はいろいろ可能だろう。まあこれ以上私の愚行をここで晒したりはしない。ただ間違いなく、本書には、自分の懐かしみの感覚(それ自体がもうすでに懐かしいものだが、、)を刺激する不思議な魅力があった。なお我が子にはこうしたノスタルジックな感覚というのはまだまだ存在しないように感じた。

絵本の紹介「うみの100かいだてのいえ」

先日子供を連れて水族館に行った。といってももうすでに覚えているだけでも4館くらいに行っているのでまあ子供も慣れたものである。イルカが近寄ってきてもびっくりして泣き出すなんてことはない。ただ、慣れたといっても、海の生き物が非日常的なものであることもまた間違いのない事実だ。マンボウみたいに何を考えているのかもよくわからないがマイペースな存在感を見せつけるような生き物は身の回りにあまりいない。ということでまだまだ新しい発見はたくさんあって、子供らしい素直な感嘆を見せてくれると遠くまで来たかいがあったと親としては嬉しくなったりする。

 

振り返れば私自身のこれまでも、海を身近な存在と呼べるような環境にはなかった。父は釣り好きだが、それは私の性には合わない。スキューバダイビングもしない。海水浴はせいぜい2年に1回くらいいそしむ程度だ。10年近く前の北海道旅行で4時間程度の遊覧船に乗ってイルカに一回遭遇できたことはある。水族館も子供ができる前はおおよそ計10回ほどしか行っていない。ということで海の経験値は実は我が子と大差ない。

で、まあそれに見合った程度の知識しか実際ないわけだが、それでも多くの生き物をテレビや本その他の機会に目にすることも当然多々あった。それらの記憶と照らし合わせながら水族館での鑑賞をすることで、私にとってもなんとなく海の生き物が馴染みのある存在にはなっている。

 

こんなことを書いたのは、その先日の水族館で、子供が本から学んだ知識を披露してくれて感心したということがあったからだ。ということで今回はそのもとの本の紹介。

うみの100かいだてのいえ

言わずと知れた(?)「100かいだて」シリーズの海底編だ。本を縦開きにして、100階建ての建物を各見開きに10階ずつ描いて、それを主人公が順番に訪問していくというのがそのスタイルだ。そのアイデアがなかなか画期的なのはそうとして、この本の魅力は見開き各10階ごとに暮らしている様々な生き物の生活の様子を細かく生き生きと描いていることにあるだろう。海バージョンの本書でも、イルカやクラゲ、チョウチンアンコウなどが登場し、それぞれの「家庭」で赤ちゃんが育てられていたり、お茶を飲んだり、読書をしたりといった姿が、その生き物の特徴にちなんだ形で描かれる。子供は、そうした様子を見ると想像力がかきたてられるのか、本書もオリジナルの「100かいだてのいえ」もとても気に入っていて、それこそ毎日のように読んでいる。

 

そういうわけで、この本に出てくる生き物達は子供にとって、とても馴染みのあるものとなっている。先日の水族館でも、本書に登場していたウツボをみて「ウツボだ」と言って少し怖がるような様子を見せたり、タコを見たら「スミを吐いたりするかなあ」と言ったりした。こうした様子を見ると、こうやって子供というのは知識をつけていくんだなあと思った。