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子どもはおやすみ

子育てを通じて感じたことと絵本の紹介

私がポケモンGOをやらないわけ

ポケモンGOが何かと話題だ。私は日常的にはあまり人と関わる方ではないので、どれほどの流行りなのかという実感はつかみにくい。一人それをやっている同僚がいて少し話した程度だ。街を見てもそれほどあからさまに歩き携帯をしている人は稀なようには思う。同僚曰く、集まる場所には結構集まっているらしく、その集客力を商売チャンスと見ているような場所もあるらしい。まあニュースを読む限り流行っているということなのだろう。

 

さて私はというと、さすがに興味がない。子供の頃は人並みにファミコンスーファミで1日の制限時間いっぱいゲームをするようなガキではあったが、中学くらいにはもうあまり興味がなくなっていた。何というか人の作ったルールで高得点をあげたところで満足感は得られないでしょ、というような達観した見方を持ち始めたためだ。今回のポケモンに対してもその感覚だ。一方で、それも中途半端な達観であることは承知しており、実際、いまだに人からの評価を気にしながら仕事なり生活なりをし、またこのブログを書いている。それどころか、「達観」を始めた中学以降も学生時代は、テニスその他のスポーツを(下手くそなりに)情熱をもってやっていた。これらスポーツなどは人の作ったルールでやるゲームの典型なわけで、まあ言うまでもなく私も普通の俗世を生きている。その他挙げればキリがないが、では果たしてその線引きはどこにあるのかということについて考えてみたのでそれを書いてみたい。もちろんあくまでも私に限った話であり、ポケモンGOフリークを侮蔑するような意図はまったくない。

 

私の場合、もはやいわゆるテレビゲーム(というか今ではスマホゲーム?)にはほぼ興味がない。理由は前述の通りでそれ以上ではないのだが、要するにそれでスゴくてどうするの?という気持ちが拭えないためだ。ただこれがあらゆるゲームについてそう感じるかというとそうではない。結論から言えば、自分が認められたいと思うコミュニティの中で自分の能力が試されていると感じるゲームであれば、そこそこ没頭してしまう。卑近な例を挙げれば、仲間内でのトランプの大富豪・大貧民といったゲームや麻雀だ。テレビゲームでもテトリスぷよぷよの類はそれに当てはまり得るだろう。もしくは昔の部活の仲間とかでフットサルや草野球をしたりしてもまあ盛り上がるだろう。他にも、子どもが生まれる前は目新しいボードゲームを買ってきて妻とそれを遊んだこともあった。これらのゲームは(私の認識では)ある程度の知性や反射神経、体力などが試されるもので、お互いの(小さな)プライドがぶつかり合うものだ。そうした場においてそこそこ活躍できるということは満足感を得られるものである。

ただし、ここで重要なのは自分の所属集団におけるそのゲームの価値を認めるコンセンサスの存在だろう。先に挙げた麻雀やフットサルといったゲームは私の世代では一応世間一般でもメジャーなものであり、学生時代からそれに優れることは良しとされてきた。まあ麻雀の場合は陰湿なイメージもあるのでそれができるからといってモテている人など見たことはないが、飲み物代を賭けるくらいのやり方でお互い本気であるという前提をうまく作れるので、ゲームも本気で楽しめるわけだ。 

 

次に、仕事や育児、その他あらゆる時間の使い方もゲームと捉えることができる。ただし、私にとってはこれらは特殊で、他人に定められた評価軸に加えて、自分自身によって定められる評価軸も交差する。他人からの評価軸にはいわゆるゲームそのものと同じで、あるルールに従って、ある種の対戦相手が常に存在する。一方で、自分の評価軸には対戦相手がいない。そしてそれぞれの評価軸は常に曖昧にふらついて、互いの比重も時によって入れ替わる。

育児その他については話がややこしくなりそうなのでとりあえず置いておくとして、仕事については、私以外の多くの人も、ある対戦相手を想定しながらも、そこに自己評価を織り交ぜながら対処していることだろうと想像する。人の作ったルールで評価されてどうするのか、という「達観」の境地では、こうしたゲームは降りてしかるべきところだ。実際に自分の評価軸にしかとらわれないという生き方には憧れる。が、私はどういうわけかそうできない。その理由としては、まず、中高生時代のサッカーと同じように、仕事がデキることの価値が世間的に間違いなく認められているため、自分の所属するあらゆるコミュニティでその評価が重視されているというのがある。その上、仕事をする上では常に自分の商品価値が測られることになり、その惰性で自分がそうした評価軸を気にすることになるという側面もある。そして、往々にして仕事というものが自分のこれまでの蓄積を賭けたものになるので、どうしてもその勝負としての評価を気にしたくなる。

 

ではでは、どうしてそれらの価値をポケモンGOに見出さないのだろうか。簡単に言えば、私がそれを重視するコミュニティに所属していないし、またこれからそうしたいとも思わないためだろう。これは一面では単なる私の怠慢と見ることもできる。ポケモンGOの解説記事を読むと、どうやら高度に戦略性の求められるゲームのようで、それに優れることを有能であるとみなすことも納得できる。実際、世界的にこれらが流行っているということなので、このゲームの価値はすでに多くの人に共有されているのかもしれない。そうしたコミュニティに自ら飛び込むことは、私がスポーツ等によって得てきたもののと同様に、自分の人生を豊かにすることになるだろう。それであるにも関わらず私がそうしないのは単に面倒であるからというわけだ。

 

はてさて、上記がゲーム一般およびポケモンGOに対する私の見方だ。ここで私はポケモンGOを「他人の作ったルールに従うゲーム」と見ていて、それ以上とはしていない。しかし、ここに自分だけの評価軸を持ち出して価値を見出すことはあり得るかもしれないとも思う。そもそもポケモンGOに限らずあらゆるゲームにおいてそうしたことをする人がいたとしても不思議ではない。現実に、私だって仕事・育児について自分の評価軸を持ち出していると上述したわけで、ポケモンGOがその一つになることはまったく不思議なことではない。

などということも、普通の大人なら、「まあそうとも言えるわね」と流すところだろうが、ここで念頭に置きたいのは大人ではなく子供だ。というのは、私が仕事に自分なりの評価軸というの持ち出しているのは、それに価値を見出すような人生を送ってきたからに他ならず、あくまでも後から植え付けられた価値観によると感じているからだ。言い換えれば、ある世間一般における評価軸というの絶えず受け止めてきた結果、それを重要視するあまり自分なりの評価軸を定めているという風に感じている。そしてそれが意味するところは、人間は子供の頃に世間の評価軸というものに強く影響されながら特定の価値観を形成していくということだ。つい昨日イチロー3000本安打を達成したが、彼も野球というゲームにおいて自分なりの強い評価軸を持っていたことは想像に難くない。従って、ポケモンGOが私たちが子供の頃の野球やサッカー(もしくは勉強)と同等な位置付けを得ることが仮にあるとすれば(ポケモンGOにその価値があり得るかの判断は据え置くが、この流行りは一つの必要条件を満たす)、これに自分の評価軸を持ち出す人が多数現れても不思議ではないだろう。

 

で、これらのことを思案した後に浮かんできた思いを最後に記したい。一つはいかに私がすでに価値観を固定しつつあるかという一つの事実だ。ポケモンGOがこれだけ流行っていて、解説記事を読む限りでは極めて刺激的なゲームであるとい前提があるにもかかわらず、そこに飛び込もうとはしていない。なるほどこれが老害というものかと暗澹たる気持ちになる。

 

もう一つは、自分の子供について何をどう思えば良いのかわからないという感覚だ。今の所まだそんな年齢ではないのだが、ポケモンGOに仮に我が子がはまったとして、親として何をどうすべきなのだろうか。ポケモンGOに私が価値を認めていないとしても、子どもは前述のように将来的にそれに大きな価値を見出すことは十分にありえる。ポケモンGOには金を稼げるにおいがほとんどないので、その正当性をもってより金のにおいのする価値観へと誘導するのは親の役目の一つなのかもしれない。まあしかし自分が老害を自覚しているのであれば、せめて何もアクションをとるべからずというのが正解なのかもしれない。これについて私自身に一つエピソードがある。私は中学時代A列車で行こうというパソコンゲームにはまっていた。それこそ1日に何時間もやっていた。それと同時にプログラミングに興味を持ち始めていたので(なぜか)当時馴染みのあったBASICでせこせこコードを書いて簡単なゲームを作って遊んでいた。あるときこれについて親に言われたことは今でもよく覚えている。A列車なんてくだらない、プログラミングは面白い、というものだ。そしてそれ以来私はゲームから興味がなくなった。同時にプログラミングもまったくやらなくなった(おかげで昨今四苦八苦していたりする)。