子どもはおやすみ

子育てを通じて感じたことと絵本の紹介

娘「獅子舞の中には人がいる」

最近の保育園では新年に獅子舞が披露されるらしい。娘が一昨年いた保育園でも、去年いた保育園でも、今年の保育園でも獅子舞のイベントがあったので、そういうことだと思う。ちなみに、私自身は幼稚園に通ったが、そうした記憶は残っておらず、それはあったかもしれないし、なかったかもしれない。

私などは獅子舞に大した思い入れもなく、またそこに込められた意味もよく知らないので、獅子舞を見ても「お、なんかやってる」くらいの感想しか抱かない。しかしどうやら子供はこれを見て結構怖がるようだ。実際、一昨年、昨年と娘は獅子舞を見て大泣きしていたらしい。保育園の方としても、そうした反応を面白がることも含めて1つの節目のイベントとして企画していることと思う。

 

それで、先日、娘の保育園でも獅子舞があったのだが、どうやら今年は泣かなかったらしい。それどころか「獅子舞の中にひとがいた!」「食べるマネをしているだけだった」と言っていた。大人になった。。やはり嬉しいような寂しいような、というところだ。今いる保育園では年長さんもいっしょなので、もしかしたら、ショーの最中に、お兄さんお姉さん達が「中にひとがいる!」とマジックのタネを見破ったかのように大声で叫んで、それに娘も納得し学んだのかもしれない。いずれにしても子供の成長を感じた瞬間だ。あるいはそれを親が体感することもこうしたイベントの目的なのかもしれない。

ただ、そうは言っても、前記事のサンタクロースも、今からすぐにやってくる節分の鬼も、去年初めて行ったディズニーランドのミニーちゃんも、みんな正体が「ただの人」であることを娘はまだ知らない。なので、これらについてはまだまだ娘の子供らしさを楽しめる、、かもしれないし、それももうすぐ終わるのかもしれない。

 

さて、こうしたイベントでの自分の感情を振り返って、ふと、親にとっての子供の無垢な子供らしさとは何なのかということを考えずにはいられない、本来であれば、単純に成長を喜んでも良さそうだし、子供がこうした幻想に騙されていることを嘆いてしかるべきところかもしれないのに、どういうわけか私は子供に無垢であって欲しいという気持ちを少なからず抱いている。もしかしたら、今の娘がパパである私に懐いてくれいているのは、娘が無垢であるがゆえであるという風に無意識に感じていて、それにもいつか終わりが来るということを恐れているのかもしれない。(もっとも、理性的にはそうした時が一刻も早く来て子育てを卒業したいと思っているつもりだが。。)一方で、無垢を愛おしく思う気持ちは(自分の性欲のように)うまく説明できない感覚の一つのようにも感じる。そうした愛おしさの感覚には親を親として繋ぎとめる生物学的機能がある、なんていうともっともらしいが、それはそれでピンとこない。娘から無垢さが消えた時にこの感情の正体も見えてくるのだろうか。