子どもはおやすみ

子育てを通じて感じたことと絵本の紹介

優れたコーチ

オリンピックが終わろうとしている、、という書き出しで記事を書こうと思ったら、完成前にジャマが入って、その後うまく時間を確保できずにすでにそれから1週間が経ってしまった。まあめげずに今回はオリンピックにちなんだ記事。

 

私は子供の頃からスポーツ観戦は大好きだったが、今回はテレビがないため残念ながらほとんど見ていない。最後のリレーを後から動画で見たくらいだ。もっともyahooニュースはよくチェックしているので、文字だけだが盛り上がらなかったことはない。リレーも結果を知ってからのネット動画観戦だったが興奮した。

 

そんな感じでニュースをフォローしていた時に、特に「ほお」と思ったのは、シンクロで日本が久しぶりのメダルゲットをしたというものだった。何でも、私でさえその名を知っている、名コーチの井村氏の再登板が大きかったらしい。昔からテレビでよく紹介されていたのもあって、なんとなくコーチングに厳しいイメージを持っている。そんな井村氏はしばらく中国でコーチをし、そこでもメダル獲得の実績を上げて、その間低迷してしまった日本シンクロの立て直しということでまた戻ってきたという経緯のようだ。

で、結局またメダル獲得となったので、これはやはり名コーチなのだと誰もが納得するところだろう。もちろん実際にプレーしたのが選手であることは言うまでもないが、特にシンクロという競技の性格上コーチの重要性は揺るぎないものがあるだろう。

まあ、私は男でウォーターボーイズでもなかったことから、当然ながらシンクロについては素人だ。動きがよく揃っていると「すごいな」と思うくらいの目しか持っていない。従って井村氏がどのような指導をどのようにして指導しているかもその良し悪しもまったく判断できない。が、どうやらやはり厳しい練習を選手に課してきたということだけはその通りなようだ。

 

さて、人に厳しく接するというのはなかなか難しい。他人に厳しく自分に甘く、ではないが、厳しさは責任を伴うものであることを人は自覚するものだ。厳しい指示の内容に、本当にそれだけ厳しくするだけの価値があるか?それに自信がないと厳しい態度に徹するのは難しい。

例えば、最近の私の例では、こどもの好き嫌いをどうするかという問題がある。私としては色々な食事を楽しめるようになる方が健康にも良さそうだし人生も楽しめると思って、好き嫌いをなくしたいと思っている。が、ここでどう対処するのが効果的であるかは私には分からない。一つには厳しくおかずを食べさせるということが考えられるが、当然こどもは抵抗するのでこれを徹底するには相当の厳しさが必要になる。が、そこまでするべきことでもないと思うし、無理やり食べさせるのが最も効果的な方法だとも思わないのでそこまでしない。まあこれについてはそのうち色々食べるようになるだろうし、そもそもそうならなくてもそこまで致命的とも思わないのでそんなモチベーション自体もないのだが。

 

ということで、コーチ自身にその指導法が目的の達成にとって最も効果的であるという信念がないと厳しさを徹するというのは難しいはずである。さて、オリンピック選手の場合は目的はメダルの獲得だ。この目的は明確だ。だが自分の指導に、これができればメダルが取れる、という自信を持てるコーチというのはなかなかいないだろう。呼吸止めタイム競争くらいなら、私がコーチをしてもしかしたら厳しい指導を課すだけで、ある程度できるようになるかもしれない。が、まあその他技術的についてはどれだけ厳しくふるまったところで何もジャッジできないので私にはどうにもしようがない。

 

はてさて、どうしたらこうしたコーチング技術を身につけられるのだろうか。競技の技術を一通り知っている、評価できるのは前提として、一つには「経験」が重要だろう。一度勝利を経験すれば、文字通り自信がつくので次からは厳しい指導もできるはずで、そうするとそれがまたこれが良い結果を生むことになるという好循環もありそうだ。もう一つは徹底した研究による論理的な裏付けを得ることだろう。この場合は、良い結果を生むこともありえるだろうが、結果がともなっていない段階では選手からの信頼を得ることが難しそうである。自身が選手として研鑽と実績を積めば、その指導法をもって優れたコーチになっていくという道もありそうではある。こうしてみると、いずれにしても経験というのが非常に重要だと思える。

ただ、これはスポーツという比較的単純なルールに従うゲームだからこうなっているとも思える。たとえば子育てでコーチングというものがあった場合、自分の子供が立派に育ったという経験だけで他人の子育てをあれこれ言うのはおかしな話だ。なぜなら、「立派に育つ」も人によって定義やファクターがさまざまだからだ。こうしたケースでは、様々な子育てケースを分析している教育学者や教師の論理的裏付けが有利になりそうだ。そう考えると、私は我が子の指導者としては決して一人前になれないし、こうした子育てブログをいくら書いても子育ての指南役にも決してなれない、ということになる。それが私がこどもに甘々パパになっている原因の一つかもしれない。

子供の服にアイロンがけは必要?

夏真っ盛り、ということで嬉しいことの一つは洗濯(私の担当家事)がはかどることだ。少し外に干せばすぐに乾く。共働き家庭ならば乾燥機くらい設置すべきなのかもしれないが、なんとなく最初に躊躇してしまった結果、いまだに普通の洗濯機を使っている。今からでも乾燥機を導入すれば、たぶん食洗機によってもたらされたのと同程度の革命が再び我が家に訪れるだろう。が、経済的な理由および次の引っ越しの機会をうかがっていることによりそうはしていない。まあそれはよい。今日このブログで問題にしたいのは洗濯と着衣の間に横たわる最後の工程、アイロンがけについてだ。

 

私は長く一人暮らしをしていた。私は着る服に無頓着であったので、いつも(今思えば)ヨレヨレの Tシャツを着ているような青年であった。もともとスポーツをすることに一つのアイデンティティーを自覚していた私は、鍛え抜かれた肉体こそが自らの価値を物語るもので、服で着飾るという行為には嫌悪感を抱くべきものとさえ考えていた。が、まあ大人になる過程でTPOをわきまえるくらいにはなった。昨今は肉体の衰えも顕著なので、まあできるだけ小綺麗な格好をするように気をつかったりもする。

振り返れば、特にこうした変化は結婚して、妻から服装についてのダメ出しをいただくようになってから起こったようにも思う。妻としては、夫である私がヨレヨレの服を着て周囲の目からある種のジャッジが下されることは避けたいことのようである。まあそれもわかるので、私もそれに従うようになったわけだ。そうすると不思議なもので自分の服だけでなく街の他人の着ている服についてまでアイロンがけの有無を気にするようになった。そうしてみると、およそほとんどの人がしっかりアイロンのかかった服を着ていることに気がついて、今までの私は大丈夫だったのだろうかと不安になる。一方で、傾向としては通学途中の大学生みたいな若い人には、洋服のシワなど気にしないかつての私のような人間も多々いるようでなんとなくホッとするし、懐かしい気持ちにもなったりする。

 

ではこうしたアイロンがけの有無にはどのようなシグナルがあるのだろうか。一つ言えるのはかつての私(のような人)には何の意味もなさない。そもそも本当にそんなことに気が回ったことがないからだ。一方で、今の私も含めてこうしたことに気をつかっている人が大体数であることが現実ではある。そうした人々の間では、周りから見咎められないための必要条件、くらいのものとして機能しているのだろう。ちょっとしたレストランに寝癖ボーボーの髪とシワシワの服で入ると、その場の調和を崩す存在になる。そうならないための身だしなみというわけだ。そういえばサッカーの本田が「スーツを着るのは会う人へのリスペクト」という名言を残しているが、少なくとも私にとっては、アイロンがけをして街に繰り出すときには、そんな気持ちが込められている。

 

さて、前置きが長くなってしまったが、今日の本題に移りたい。それは子供の服にアイロンがけをするべきか、という問題だ。ちょっと高級なレストランに入る場合とか、ピアノか何かの発表会みたいなときにアイロンがけをするのはわかる。が、普段の保育園の服にまでアイロンがけをする必要はあるのだろうか。

というのは、ここのところ妻が子供の服にアイロンがけをすることがままあるのだが、それに時間を奪われることに納得がいかないのだ。まず、保育園ではどういうわけか昼飯と昼寝の間にお着替えの時間がある。それだけでも洗濯係の私としては不満があるのだが、まあその保育園側の事情は理解できなくはない。しかし、これはつまりせっかくアイロンがけをしてもせいぜい3、4時間しか着ないことを意味する。そんなものに1枚あたり3分(x 上下2枚 x 1日2セット)を費やすのはどうなのだろうか。何よりも、そもそも保育園の子供の服に「シグナル」を持たせる意味はあるのだろうかと思うわけだ。

 

しかしながら、こうした問題意識を持った後で、保育園で他のお子さんの服を見てみると確かにしっかりアイロンがけをしている家庭も少なくないことに気づいた。おそらくそうしたことによく気がつく妻としては、やはりアイロンがけをしていないということに後ろめたさを感じるのだろう。確かに保育園に通わせているとアイロンがけだけなく、様々な場面で他の家庭のエフォートに「ぐぬぬっ」と思ったりする。例えば、他の子供の手ぬぐいがウチに紛れ込むことがたまにあるが、名前が刺繍で綺麗に記入されていたりするとなんとも言えない気持ちになるものだ。

 

ただ、洋服のシワの有無なんて、服に開いた穴に比べればほとんど本質的には何の意味もない。上述の通り、その価値はそれを認める者の間にしか存在しない。せいぜい洗濯で服を干すときにパンパンと服を広げれば、そんなにシワくちゃにもならないし、子供だってまったく気にしないじゃないか。「アイロンがけ みんなでしなけりゃ 怖くない」と声を大にして言いたい今日この頃である。もしくは全自動アイロン機があればすぐにでも購入を検討したい。

絵本の紹介「おたすけこびととあかいボタン (児童書)」なかがわ ちひろ (著), コヨセ ジュンジ (イラスト)

絵本を毎週一冊は紹介したいと考えていたが早くもギャップを作ってしまった。絵本はまだまだたくさん読まされているので紹介したい本はいくつもあるのだが、どれを選ぶべきかは悩ましい。絵本を読んだ後にはそれぞれいくつかの感想を抱くのだが、それはそれこそ絵がキレイ・個性的だなあというものや、奥深い内容だったなあというものから、なんかよくわからんが子供に受けたなあというものまで様々だ。なので、本当にこの絵本はわざわざ見知らぬ人に紹介するほど完成度が高いのか、みたいに思い始めると何かと躊躇する。それに対して、私がいわゆる本を自分のために読む場合、いかに自分の考え方にプラスの作用があったかということに評価は尽きるので単純だ。たぶん絵本は、その幼児向けで分量に制約があるという性質から、ポイントを絞った一点勝負みたいな作品が多くなるのだろう。野球で言えば4冠王のヤクルト・山田ではなくて巨人の鈴木や昔の川相みたいなキラリと光る選手達といった感じだろう。それぞれの本にはそれぞれのクセがあるので、それについての感想を気張らず書いていくということでやっていきたい。

 

ということで今回紹介するのは「おたすけこびととあかいボタン (児童書)」だ。

初見でこの本を読んでいたときは正直流れがよくわからないまま、ただ文章を読んでいた。終盤に差し掛かってやっと話の流れがつかめた感じだった。かいつまんで内容を言えば、人形のウサギの目(である赤いボタン)がとれてしまって、家のどこかに消えてしまったので、それを「おたすけこびと」達に捜索してもらうというものだ。で最後はめでたくみつけてもらう。何てことはない、極めて単純だ。ではなぜこんな単純な話を追えていなかったかというと、この絵本にはテキストがほとんどないからだ。上の私の説明程度の説明さえろくに登場しない。確かに最初の場面は、こびとと、依頼人であるお母さんとの電話で、「もしもし赤いボタンをなくしてしまって、、」みたいなことから始まっている。次のページではこびとたちが「さあ仕事だ」とか言いながら出動する。が、テキストはこれだけで、何が何だかわからない。そんな調子で最後まで「あったあった」とか「やったぞ」くらいの小さなセリフ文が各見開きページに一つずつ提示されるだけだ。初見ではそもそもこびとがこびとであることさえ認識していないので、何のことかさっぱりわからないのだった。

が、途中でぼんやりわかってくる。どうやら、たくさん現れた小さな人間たちが「こびと」であること、そして彼らは何かを探しているらしいこと、それが家の中でなくなった赤いボタンであることがつかめてくる。その理解は、ほとんど絵に依拠したものだ。

 

そういうことだったのね、ということで、我が子にリトライをお願いして続けて2回目を読んだ。次は、少し解説を加えながら。さらにいくつかクイズも出しながら(子供の理解を試すために簡単なクイズを出すのが最近の私の流行りだ)。

この絵本の絵のカットは独特だ。なぜなら視点がこびとのものだからだ。最初こそ部屋全体の構図が示されるが、そのあとはボタンの落ちていた棚の隙間とかにイラストはクローズアップされる。なので最初はどこを描いたものなのかもよくわからない。が、この視点こそがこの本の醍醐味であることに後から気づかされる。子供と一緒に、これが部屋のどこなのかを、最初の全体図と比較しながら議論しながら絵本を読むことができる。部屋のここにあるゴミ箱がこびと視点ではここに見えているんだね、みたいな会話をしたりする。

結局このボタンは捜索の途中で家の水槽に入ってしまう。最後には水槽の魚を別の鉢に移してから水を抜いて、そこの砂を掘り返してボタンをみつけるという大掛かりなものになる。それぞれの場面もやはり説明文はほぼ皆無だ。これについてどういうことか子供とコミュニケーションをとりながら読み進んだ。

2回目の朗読で、私も子供も理解が進んだ。また間をおいて3回目、4回目と読んでいった。それぞれまだよく理解できていないところは適宜コミュニケーションをとりながら。

 

ということで、この本は親にとってはディマンディングな絵本だ。子供の年齢にもよるだろうが、ある程度言葉のわかっている子供にとっても本書のテキストと絵だけで理解するのは難しいのではないだろうか。文は極小だし、絵もこびとの視点でトリッキーなものだからだ。なので、その内容を理解したいと思った場合、どうしても親による解説は必要になるだろう。ただ一方で、そうしたトリッキーな構図と過少なテキストのおかげで、謎解きのような楽しみが得られる。それを通して、本を朗読する大人と子供の間で楽しいコミュニケーションをさせてもらえる、本書はそんな絵本だった。どうやらこの本はシリーズものらしく、あるいはその2冊目として読むとこうした感想もまた違ったものになるかもしれないが、別のお話も読んでみたいと思った。

 

最後に、冒頭に本が自分にプラスになるかどうかが私の本の評価軸であると書いたが、絵本についても子供にとって何かプラスの発見があるかどうかというのは一つの視点になり得るだろう。そういう意味でも、「こびと視点のイラスト」をじっくり見せていくこの本のスタイルは子供にとっても新鮮なものであったようで、良かったと思う。