子どもはおやすみ

子育てを通じて感じたことと絵本の紹介

総論と個人の物語

ある記事をYahooやはてなで見かけたので読んでみた。冒頭に次にような断り書きがあった。

この連載では、女性、特に単身女性と母子家庭の貧困問題を考えるため、「総論」ではなく「個人の物語」に焦点を当てて紹介している。個々の生活をつぶさに見ることによって、真実がわかると考えているからだ。

どうやらこれは連載記事の一つで、他の記事も同様の枕詞で始まっていた。ある特定の物語に焦点を当てて貧困問題を綴る記事というのは特に珍しくもないと思っていたので、わざわざこうした但し書きがされていることを新鮮に感じた。それをきっかけに総論と各論との関係について思い巡らせたことがあったので、今回はそれを本ブログ記事のタネにしたい。

 

ここで言う「総論」に当たる議論の形式とは、ある因果関係を探るために、その対象全体を俯瞰するようなデータを見ようとするものだろう。それに対するものとしての「各論」とは、ある「個別の物語」を精査することである因果関係を提起していくものだ。

 

だがそもそも総論と各論というカテゴリーは相対的なものである。例として保育園に入れない待機児童の問題を考えてみる。待機児童の生じる原因として、マスの数字を見て保育園の数が足りないから待機児童が出てしまう、というのを総論的議論とすれば、ある子供が保育園に受け入れられなかった理由を考えるのは各論的議論となる。一方で保育園問題を少子化問題や女性の社会進出の問題の一つの要素として捉えた場合は、それ自体を各論と呼ぶこともあり得る。反対に、ある子供が待機児童になった理由について、その親の人生の様々な要素をポイント化して、ある考察を得られたとしたら、それを総論と呼んで、各要素の吟味を各論と呼ぶことも可能である。そういう意味で、総論、各論というカテゴリー分けは結局その当人が、何を問題と考えるかという思想に従ったものと言えるだろう。

 

なぜ私がこうした考察をここで述べたかというと、「各論」が「総論」に比較して軽視されがちという現実を感じるからだ。なぜ現実としてそうなりがちかというと単純で、総論が各論に比べて議論の対象が広く、パワフルだからだ。例えば保育園問題では保育園の数が足りないと待機児童が生じるというのは各論をどうしたところで動かぬ事実だろう。しかしここで注意すべきことは、待機児童問題で各論について声高に議論する人がいたとして、その人と「総論」論者とは議論の対象は必ずしも一致しない。「各論」論者が、保育園が足りないことは置いておいて、待機児童になる子供・ならない子供の待遇の違いを嘆いたとして、それもまた考えるに価する問題だろう。このときに、いやいや保育園を増やせばよいというのは議論の不一致に他ならない。

 

さて、こうした議論の不一致があったとして、それは価値観の違いに起因する問題と見ることができるが、必ずしも対立すべきものでもないはずだ。保育園問題について言えば、その多くの当事者にとって、保育園の数が増えたら嬉しいし、受け入れ選考の不公平が解消されればそれもまた嬉しいものだ。

 

一方で、議論の不一致が対立を引き起こしているように見えるケースも散見される。一例としては子宮頸がんワクチンの問題があるだろう。総論としてマスの数字を見るとワクチンには一定の効果があるというのが現在の一般的な見解だ。一方で、各論を見ればワクチンを打ったからといってガンになるケースも当然あることは置いておくとして、副作用が疑われるケースもあるという。面白いことに、この副作用を総論的にマスの数字で明示するようなデータはないようだ。ここで、少なくとも科学的にはこのマスのデータをもって副作用の存在を否定することはできない。これを明確にするためには副作用とされる各々の症状の原因を突き止め、それを否定(あるいは肯定)するか、他の何らかの因果関係を示す証拠を提示する必要がある。

 

こうした状況で、理想的には一刻も早く副作用とされる症状について原因解明をして、適宜対応するべきだろう。しかし、こうした原因解明は往々にして一筋縄にはいかないということがあるようで、現実的にはこれを宙に浮かせたまま対処する必要があるというのが現状だろう。これに対して、総論重視派はとりあえずワクチンみんな打っとけということになり、各論重視派はおいおい副作用だったらどうするんだということになる。個人の方針としてワクチンを打つかどうかについては、マスデータを根拠に、打つことを有益とするのはコンセンサスになり得ると思う。しかし政治的な方針としてこのワクチンをどう扱うかという議論においては価値観の違いに起因して対立が生じているということのように見える。ここで往々にして総論重視派は各論軽視に陥りがちになるかもしれないが、それは理想的な判断ではないことは自覚するべきだろう。なお、こうした状況で結局政治的にどう判断されるべきものなのかという問題は私には難しい問題に見える。