子どもはおやすみ

子育てを通じて感じたことと絵本の紹介

今週の絵本 「ピンクがすきってきめないで」

うちの子供の性別は女だ。女性の社会進出が叫ばれて久しいが、私が専業主夫になれない理由を鑑みるとまだまだ性別の役割に対するステレオタイプが社会にはびこっていると感じる。ということで子供にはそうしたジェンダーロールフリーな価値観をもってもらいたいと思ってここまで育ててきたつもりだ。だがその甲斐むなしくいつの間にか子供はプリンセスにあこがれるようになり、お姫様抱っこを要求しては、私がそれに応えるというのが日常の姿になってしまった。

 

まあ私一人が社会的ステレオタイプに対抗しようとしたところでどうしようもない。何しろ相手は社会だ。アンパンマンもディズニーもかっこいいものは男でカワイイものは女と相場が決まっている。そもそも身内のジジババも女の孫にカワイイ服を着せてやろうとしてくるので、社会がどうこう以前の問題だ。

 

ということで、こうしたステレオタイプを排除することなど到底不可能なわけだが、果たしてそれができたとして男女にステレオタイプが存在するかというのは興味深い問題だろう。子育てを経験して、色々な意味で男女差を認識してきたこともあり、また多くの動物にもそうしたものが厳然として存在するように見えることから、男女にはそれぞれ典型的な特徴というのはありそうだというのが私の認識ではある。それを公然と事実であると言い切るのはポリティカルコレクトな態度とは言えないだろうとも思うが。仮にそうだとして、それを超える理性を身に付けたいというのが私の理想ではある。 

 

という前振りで今週紹介するのがこの本だ。

ピンクがすきってきめないで (講談社の翻訳絵本)

 

タイトルでほとんどその内容は想像がつく通りだが、ピンクが好きじゃない女の子が’、女だからといってピンクを押し付けてくる周りにうんざりするというお話だ。この本で私が面白いと思ったのは、これは海外の訳本なのだが、海外でもやはりこうしたステレオタイプがあるらしいという事実だ。ちなみにこれを今週の絵本ということで紹介しているが実際に読んだのはもうだいぶ前で、手元に残っていないこともあり記憶もあやふやになってきていて作者がどこの国の人かは残念ながら断言できない。何となくフランスだった気がするが。。

 

まあこれがフランスかそれに類する国の話だとして、そうしたジェンダーフリーの先進国みたいなところでもこうしたステレオタイプというのは根深い現象なのだろう。一方で、この本はそうした現実においてなおジェンダーフリー先進国としてあるための一つの文化的現れとして捉えられるかもしれない。すなわち、こうしたステレオタイプをどうにかしたいという文化的背景があって、その一つの解決策として、ステレオタイプにさらされている子供を啓蒙しようという本として出てきているのだろう。もちろんこうした問題意識は日本でも十分に共有されているものだと思うし、日本人だからと言ってこの本に違和感を感じることなどないだろうが、そうした問題意識や対応策の厚みがあるいは彼の国とは違うのではないだろうかと想像させられはした。

 

さて、うちの子供であるが、この本も例によって何回か読んでみたのだが、どこまでピンときたのかは不明だ。冒頭記したように、今現在は女のステレオタイプにどっぷり浸かっているので、まあ特に心に響くところはなかったのかもしれない。ただ、必ずしもピンク「だけ」が好きなわけではなさそうなので、あるいはほんの少しだけ価値観の形成に寄与したところがあるかもしれない。ということで、この効果の小ささを鑑みると、やはり社会のステレオタイプに対抗する上で、いかに個人の心がけが無力であるかを感じざるを得ない。

今週の絵本 「ぷうちゃんのちいさいマル」

私の子供は文字を文字と認識しているが、まだほとんど読めない。一応、文字を識別しようとする姿勢を時折垣間見せたりする。ただ面白いもので、文字を覚えたいのかどうかさえもよく判別しないような興味の示し方にも見える。たまに文字を見つければ、これは何々の文字だと言ってみたりする。そしてたまに正解だと褒められて嬉しそうにしたりする。逆に間違っていてもそれを気にとめるでもなく、その周りの文字列を読んでいるかのようなそぶりで適当な言葉を発したりする。

 

子供が文字を読めるようになると、あるいは私が絵本を読む必要がなくなるかもしれないなどという淡い期待がないことはないのだが、特にそれ以外に不必要に早い段階で文字を読めるようになった方が良いだろうというほどのものはないので、これについて熱心に教えたりしているつもりはない。ただ、文字を教えようと思うとそれは存外に難しいというのは強く感じる。

 

まずひらがなとカタカナという2種類の文字があるのは混乱する。カタカナが出現したらこれはもう一つの文字だと説明するだけで何事でもないかのように振る舞うというのが現在の私の対応だ。さらに小さい文字になったり点々・丸がついたりすると読み方が変わったりするわけだが、これへの対応もとても難しい。というか、これについてはシステム自体は複雑ではないと思うのだが、実際に説明を求められる場面で子供がどのような動機でどこまで何を知りたいと思っているのかも判然としないので、システマティックな説明を振りかざすような状況には到底ならない。なのでこれは小さい文字だから、、と言ってその読み方を聞かせるだけに終わるのだが、まあ結局ただ流されているだけだろう。

 

そんな子供が思いのほか食いついた本がこれだ。

ぷうちゃんのちいさいマル (いっしょによんで!)

表紙絵の女の子がぷうちゃんだ。よく見ればわかるようにこの女の子には”まる”がついている。で、これが落ちると「ふうちゃん」になり点々がつくと「ぶうちゃん」になるというアイデアが肝の話だ。まあ大人としてひらがなを普通に使いこなす私から見れば、なるほどおもしろいねというくらいでおしまいなのだが、どういうわけかうちの子供はこれに食いついて、何回も読んで読んでとせがまれた。半年くらい前まではどんな本でも何回も読んだものだが、成長に伴う変化かわからないが最近はほとんどの本は1回読めばわりと満足してもらえていたという状況だったので、少し驚いた。で、何回も読んだわけだが、そうしているうちに何となく感じたのは、ちいさなまるとてんてんで何で名前が変わるのかよく考えようとしているらいしいというものだった。結局その後テストをしたわけでもないのでどこまで理解したのかは定かではないが、子供なりにこのシステムに納得したようであった。

 

ということで、最初の文字を子供に教えることについてだが、今回子供がこれを本当に理解しているかどうかは置いておくとして、とりあえず濁点システムについて一通りの説明をこの本がかわりにしてくれた形になった。で、結局なにがポイントだったかというと、まるやてんてんでなまえが変わり一連の出来事が引き起こされるという物語が具体的かつ唐突に示されたことで、子供が何で何でと頭を働かせることになったというところだろう。こうしてみると動機付けが学習の王道なのはそうとして、それをどう達成するかというのはなかなか狙ってできるものではなく、たまのこうした偶然の出会いの積み重ねの影響が大きいのだろうということを思う。

 

本書についてもう一言コメントするとイラストはかなりクセのあるものだ。普通の画風で女の子にマルをつけようとするとあるいはおさまりの悪いものになるといったことがあるのかもしれない。このあたりどういった経緯でできあがったのか興味深い(特に調べたりはしていない)。

今週の絵本

我が家にはテレビがないこともあって、絵本は重要な子どもの娯楽の一つとなっている。絵本はそこそこ値段がすることもあって図書館で借りることがもっぱらだが、その中で気に入ったものがあればたまに購入したりする。その他ジジババなどからの贈り物としてもらったりする。

絵本に当たり外れはあると思う。我が家は一週間あたりだいたい10から20冊くらい読むが、イケてないと思うものが2割、まあ普通に楽しめるものが6割、なかなか面白いと思えるものが2割くらいだろう。ただ、それが絶対的な評価では決してないとも一方で思う。そもそもメインターゲットである子どもの成長は大変に早いもので、それに伴って絵本の好みもどんどん変化する。たぶん、子どもごとに好みもだいぶ違うだろう。もっと言えば、子どもが面白いと思う本がどうして面白いのか大人からはわかりにくかったりして、子どもに受けていたとしてそれが本当に受けているのかさえよくわからなかったりする、なんて言ったりするとそれ自体何を言っているのかわからないわけだが、そいうことで、ある時点でのある子どもへの当たり本が、必ずしも普遍的であることはまったくない。ただ一方で、好みの似た人が他にいれば、もしかしたらこうした絵本の紹介をするこてはあるいは有益かもしれない。ということで、このブログでも、折角なので絵本を少しずつ紹介していく。だいたい毎回2冊くらいの予定。

ところで、絵本なんて物心ついたころにはもう読まなくなっていたわけだが(漫画は読んだが)、子どもができて久しぶりに絵本を読んで気づいたのはそのターゲット読者には、子の親も含まれているということだ。たとえば「もこもこもこ」を読んで感慨にふけった親は多いのではないか。で、前段との兼ね合いになるが、親の評価と子の評価(というか食いつき)は必ずしも一致しない。その辺りのすれ違いやバランスも含めてうまく論評できたら面白い絵本書評ブログになると思う。ただし、私にはそこまでの気概はなく、ここではただ何となく紹介していくだけだろう。

 

で、今日の一冊目、999ひきのきょうだいのおひっこし

999匹のきょうだいはシリーズものらしいが、我が家はこれが初めてだ。999匹はオタマジャクシからカエルに変わった兄弟たちだ。生まれた池が手狭になったということで、別の池にお引越しするというお話だ。初めてのお引越しということで、999匹にの兄弟にとっては知らない世界の冒険だ。そこで初めて出会う様々な危険などをハラハラドキドキしながら乗り越えるというのが話のメインで、「初めての冒険」ものの類型だ。本書ではその中に、家族の引越しということで、親のリーダーシップが描写されたり、兄弟の助け合いがあったりという要素があって、なかなか楽しめた。文は木村研という方で本書で初めて見た(というか認識した)方だが、絵は村上康成という売れっ子(と思われる)の方で、クセのありつつも可愛らしい絵で子どもも惹きつけられているようだった。

 

ところで、私は絵本業界のフォローをしたりしているわけではないので、売れっ子かどうかなどに関しては私の観測範囲での判断で、客観的な数字に基づくものではないことにご注意いただきたい。

 

もう一冊は、かこさとしほねはおれますくだけます (かこさとし・からだの本 8)だ。

本書は学習本のようなものだが、最近ほねや骸骨に興味を示し出したうちの子どもにヒットした。いろいろな生き物を比較しながら、体の中でほねがどうやってあるか、またそれがないとどういった不便があるのかをわかりやすく解説したものだ。面白かったのは、(恥ずかしながら知らなかったが)、ヒトの手のひらのほねの要素は成長に従って出来上がっていくという説明だ。私と子どもではほねの数が違うことをお互い知ることができて、面白がることができた。

本書も「かこさとし、からだの本」というシリーズものなので、機会があれば別のものも読んでいきたい。