子どもはおやすみ

子育てを通じて感じたことと絵本の紹介

段ボールでDIY

我が家は共働き世帯で車もないので買い物の4分の3くらいはネット通販に頼る。欲しいと思ったら翌日には届くので便利この上ない。ただ1つ欠点があって、梱包の段ボールがどんどんたまってしまう。特に私が面倒臭がりなので段ボールはなかなかつぶされず、そこら辺りに散在するといった状況が週末まで続く。

 

さて我が子はそんな通販と段ボールが大好きだ。ピンポンが鳴れば「何だ何だ、誰のだー」と玄関までやってくる。実際、おむつなどの子供用品や粘土や塗り絵などの遊び道具もよくネット通販で買っているので、パブロフの犬的な条件反射が形成されたのかもしれない。で、まあ大抵は子どもにとってはつまらぬ中味であるのだが、それでも必ず付随してくるのが段ボールだ。段ボールがあれば、まあ何か遊べるでしょ、という感じで寄ってくる。

 

実際それで何をするかといえば、自分が入れる大きさであればそれを乗り物にしたりおうちにしたり、そうでなくてもキャンバスとしてお絵描きしたり、そりにしたり、鎧や装飾品を作ったりといった感じだ。丈夫な素材の割に何をしても親に怒られたりしないということで、子どもにとっては楽しい遊び道具であるわけだ。

 

今日も部屋に散らかっていたいくつかの段ボールを使って椅子を作っていた(というか実際は私がほとんど作らされるわけだが)。そんな我が子を見て感じるのは、子どもの旺盛なDo it yourself! DIYの精神だ。確かに自分の子どもの時も、いろいろなものを自分で作る・用意することへの憧れみたいなものがあった気がする。ママゴトなんかもDIY精神の発露したものと捉えられるかもしれない。

 

こうしたDIYというのは欧米ではある種のステータスというか素養というか、人としての評価や自身の人生の充実度を図る重要なポイントであるようだが、私の感覚では日本(の都市部)ではそうした側面は限定的であるように思う。どちらかというと、効率的にサービスを活用していくことに美徳があるとさえ言えるだろう。

 

で、私自身を省みて、DIYへ憧れる気持ちみたいなのは残っていると思う。一方で、それを実行しようという意識ははるか昔に消え失せたように思う。なぜか。一つには仕事の価値観に自分が覆われているというのがあるかもしれない。仕事であれば、それにはある明確な目的があるので、参加パーティーでいかに得意分野を分担しながらそれを達成するかという効率化を目指すのは普通だろう。あるいは昔どこかで学んだ経済学の比較優位の原則に感化されすぎたのかもしれない。サービスの外注で富を最大化すべしみたいな。いずれにしてもあるゴールを目指すという感覚がDIYを遠ざけている感じだ。

 

ただ、こうした価値観が一面的なものであるのは言うまでもない。自身の人生で何かに価値を見出そうとした時に、多くの人にとっては、それが効率的な富の創出というものにはなかなかならないはずだ。むしろDIYによって得られる日々の生活における自己満足こそがそれにあたるものだという風に子供の遊びを見て思う。

今週の絵本 「ぷうちゃんのちいさいマル」

私の子供は文字を文字と認識しているが、まだほとんど読めない。一応、文字を識別しようとする姿勢を時折垣間見せたりする。ただ面白いもので、文字を覚えたいのかどうかさえもよく判別しないような興味の示し方にも見える。たまに文字を見つければ、これは何々の文字だと言ってみたりする。そしてたまに正解だと褒められて嬉しそうにしたりする。逆に間違っていてもそれを気にとめるでもなく、その周りの文字列を読んでいるかのようなそぶりで適当な言葉を発したりする。

 

子供が文字を読めるようになると、あるいは私が絵本を読む必要がなくなるかもしれないなどという淡い期待がないことはないのだが、特にそれ以外に不必要に早い段階で文字を読めるようになった方が良いだろうというほどのものはないので、これについて熱心に教えたりしているつもりはない。ただ、文字を教えようと思うとそれは存外に難しいというのは強く感じる。

 

まずひらがなとカタカナという2種類の文字があるのは混乱する。カタカナが出現したらこれはもう一つの文字だと説明するだけで何事でもないかのように振る舞うというのが現在の私の対応だ。さらに小さい文字になったり点々・丸がついたりすると読み方が変わったりするわけだが、これへの対応もとても難しい。というか、これについてはシステム自体は複雑ではないと思うのだが、実際に説明を求められる場面で子供がどのような動機でどこまで何を知りたいと思っているのかも判然としないので、システマティックな説明を振りかざすような状況には到底ならない。なのでこれは小さい文字だから、、と言ってその読み方を聞かせるだけに終わるのだが、まあ結局ただ流されているだけだろう。

 

そんな子供が思いのほか食いついた本がこれだ。

ぷうちゃんのちいさいマル (いっしょによんで!)

表紙絵の女の子がぷうちゃんだ。よく見ればわかるようにこの女の子には”まる”がついている。で、これが落ちると「ふうちゃん」になり点々がつくと「ぶうちゃん」になるというアイデアが肝の話だ。まあ大人としてひらがなを普通に使いこなす私から見れば、なるほどおもしろいねというくらいでおしまいなのだが、どういうわけかうちの子供はこれに食いついて、何回も読んで読んでとせがまれた。半年くらい前まではどんな本でも何回も読んだものだが、成長に伴う変化かわからないが最近はほとんどの本は1回読めばわりと満足してもらえていたという状況だったので、少し驚いた。で、何回も読んだわけだが、そうしているうちに何となく感じたのは、ちいさなまるとてんてんで何で名前が変わるのかよく考えようとしているらいしいというものだった。結局その後テストをしたわけでもないのでどこまで理解したのかは定かではないが、子供なりにこのシステムに納得したようであった。

 

ということで、最初の文字を子供に教えることについてだが、今回子供がこれを本当に理解しているかどうかは置いておくとして、とりあえず濁点システムについて一通りの説明をこの本がかわりにしてくれた形になった。で、結局なにがポイントだったかというと、まるやてんてんでなまえが変わり一連の出来事が引き起こされるという物語が具体的かつ唐突に示されたことで、子供が何で何でと頭を働かせることになったというところだろう。こうしてみると動機付けが学習の王道なのはそうとして、それをどう達成するかというのはなかなか狙ってできるものではなく、たまのこうした偶然の出会いの積み重ねの影響が大きいのだろうということを思う。

 

本書についてもう一言コメントするとイラストはかなりクセのあるものだ。普通の画風で女の子にマルをつけようとするとあるいはおさまりの悪いものになるといったことがあるのかもしれない。このあたりどういった経緯でできあがったのか興味深い(特に調べたりはしていない)。

総論と個人の物語

ある記事をYahooやはてなで見かけたので読んでみた。冒頭に次にような断り書きがあった。

この連載では、女性、特に単身女性と母子家庭の貧困問題を考えるため、「総論」ではなく「個人の物語」に焦点を当てて紹介している。個々の生活をつぶさに見ることによって、真実がわかると考えているからだ。

どうやらこれは連載記事の一つで、他の記事も同様の枕詞で始まっていた。ある特定の物語に焦点を当てて貧困問題を綴る記事というのは特に珍しくもないと思っていたので、わざわざこうした但し書きがされていることを新鮮に感じた。それをきっかけに総論と各論との関係について思い巡らせたことがあったので、今回はそれを本ブログ記事のタネにしたい。

 

ここで言う「総論」に当たる議論の形式とは、ある因果関係を探るために、その対象全体を俯瞰するようなデータを見ようとするものだろう。それに対するものとしての「各論」とは、ある「個別の物語」を精査することである因果関係を提起していくものだ。

 

だがそもそも総論と各論というカテゴリーは相対的なものである。例として保育園に入れない待機児童の問題を考えてみる。待機児童の生じる原因として、マスの数字を見て保育園の数が足りないから待機児童が出てしまう、というのを総論的議論とすれば、ある子供が保育園に受け入れられなかった理由を考えるのは各論的議論となる。一方で保育園問題を少子化問題や女性の社会進出の問題の一つの要素として捉えた場合は、それ自体を各論と呼ぶこともあり得る。反対に、ある子供が待機児童になった理由について、その親の人生の様々な要素をポイント化して、ある考察を得られたとしたら、それを総論と呼んで、各要素の吟味を各論と呼ぶことも可能である。そういう意味で、総論、各論というカテゴリー分けは結局その当人が、何を問題と考えるかという思想に従ったものと言えるだろう。

 

なぜ私がこうした考察をここで述べたかというと、「各論」が「総論」に比較して軽視されがちという現実を感じるからだ。なぜ現実としてそうなりがちかというと単純で、総論が各論に比べて議論の対象が広く、パワフルだからだ。例えば保育園問題では保育園の数が足りないと待機児童が生じるというのは各論をどうしたところで動かぬ事実だろう。しかしここで注意すべきことは、待機児童問題で各論について声高に議論する人がいたとして、その人と「総論」論者とは議論の対象は必ずしも一致しない。「各論」論者が、保育園が足りないことは置いておいて、待機児童になる子供・ならない子供の待遇の違いを嘆いたとして、それもまた考えるに価する問題だろう。このときに、いやいや保育園を増やせばよいというのは議論の不一致に他ならない。

 

さて、こうした議論の不一致があったとして、それは価値観の違いに起因する問題と見ることができるが、必ずしも対立すべきものでもないはずだ。保育園問題について言えば、その多くの当事者にとって、保育園の数が増えたら嬉しいし、受け入れ選考の不公平が解消されればそれもまた嬉しいものだ。

 

一方で、議論の不一致が対立を引き起こしているように見えるケースも散見される。一例としては子宮頸がんワクチンの問題があるだろう。総論としてマスの数字を見るとワクチンには一定の効果があるというのが現在の一般的な見解だ。一方で、各論を見ればワクチンを打ったからといってガンになるケースも当然あることは置いておくとして、副作用が疑われるケースもあるという。面白いことに、この副作用を総論的にマスの数字で明示するようなデータはないようだ。ここで、少なくとも科学的にはこのマスのデータをもって副作用の存在を否定することはできない。これを明確にするためには副作用とされる各々の症状の原因を突き止め、それを否定(あるいは肯定)するか、他の何らかの因果関係を示す証拠を提示する必要がある。

 

こうした状況で、理想的には一刻も早く副作用とされる症状について原因解明をして、適宜対応するべきだろう。しかし、こうした原因解明は往々にして一筋縄にはいかないということがあるようで、現実的にはこれを宙に浮かせたまま対処する必要があるというのが現状だろう。これに対して、総論重視派はとりあえずワクチンみんな打っとけということになり、各論重視派はおいおい副作用だったらどうするんだということになる。個人の方針としてワクチンを打つかどうかについては、マスデータを根拠に、打つことを有益とするのはコンセンサスになり得ると思う。しかし政治的な方針としてこのワクチンをどう扱うかという議論においては価値観の違いに起因して対立が生じているということのように見える。ここで往々にして総論重視派は各論軽視に陥りがちになるかもしれないが、それは理想的な判断ではないことは自覚するべきだろう。なお、こうした状況で結局政治的にどう判断されるべきものなのかという問題は私には難しい問題に見える。