子どもはおやすみ

子育てを通じて感じたことと絵本の紹介

絵本の紹介「おもちゃのくにのゆきまつり (こみねゆら)」

絵本を子供に読み聞かせるのは、楽しいことでもあるのだが、時になかなかしんどいことでもある。私からすればつまらないけれど、子供にはどういうわけかウケの良い本というものはたくさんあって、私が疲れている時などにそうした本(でかつ文章が長い本)を本棚から子供がピックアップしてくると「うーつらい」という気持になる。例えば「どんぐりむら」シリーズなどは私にとってはその典型で、特に感じることもないようなお話が長々と続くだけに思えるのだが、子供にとってはそれはよく書き込まれた絵の連続とめまぐるしい話の展開とでとても面白いものと感じられるみたいだ。まあ絵本は子供に受けてナンボなので、そうした本こそがむしろ良作だと呼ぶべきなのはわかる。だがやはり朗読者の大人も読んでいて楽しい本であることに越したことはないだろう。

 

そういった意図で、私自身が面白いと感じた本もこのブログではいくつか紹介していきたい。で、今日は「おもちゃのくにのゆきまつり by こみねゆら」を紹介する。どうやら絶版のようでいつも埋め込むアマゾンのリンクはない。(と思ったら後日リンク貼付できました。)ちなみに私は図書館で借りただけだ。

 

この本を読んだとき、絵本でここまで表現できるのかと素直に感嘆したのだった。ストーリーは、主人公の男の子が大切にしているウサギの人形の腕が少し壊れてしまうところから始まる。すると「おもちゃのくに」からそのウサギの人形に招待状が届いて「ゆきまつり」に参加する。行ってみるとそこはたくさんのおもちゃが暮らすところで、「ゆきまつり」には主人公たちの他にも多くのゲストが来ていた。おもちゃのくにの人形ガイドさんに連れらてゆきまつりを楽しんでいると、男の子はクマのぬいぐるみが自分をじっと見ていることに気がつく。それは小さい頃にはよく遊んでいたけれどいつのまにかいなくなった昔のクマのぬいぐるみだった。。

 

面白いのは"今トモ"のウサギの人形と"元トモ"のクマの人形との対比だ。別に今カノ元カノではないのでドロドロした嫉妬も何もない。3人でゆきまつりを楽しむ。しかし、そのおまつりももう終わりというときに、元トモのクマ人形は、男の子に、自分はおもちゃのくにに残る、すごしやすいから、と告げる。それを聞いた男の子はもしかしてウサギの人形も、、と心配するが、こちらは「さあ帰ろう」と言って、一緒に帰る。ウサギの人形は雪まつりの間におもちゃ病院で壊れた腕を治してもらっており、家につくとすっかり元どおりになっている。そして男の子はまたウサギの人形と一緒に遊べる喜びをかみしめるのだ。

 

結果的にこの「おもちゃのくにのゆきまつり」は男の子とウサギの人形との絆をつなぎとめ深めた存在となった。それがなかったら、もしかしたら男の子はウサギの人形とも疎遠になっていたかもしれない。ある意味ではクマの人形がそうしたアナザーストーリーを示唆する存在だ。こうしたいつの間にかいなくなったおもちゃというのは何となく心にひっかかるものだ。いつの間にか興味を失ったことへの申し訳なさみたいな感覚もあるし、昔の自分の感覚を忘却してしまったような寂しさも感じる。私ももうオッサンなのでそうした対象がおもちゃであることはもうほとんどないのだが、代わりにそれこそリアルな友達付き合いとかがそういった感じで変遷していると言えるかもしれない。そして、いままさに我が子が自分のおもちゃや人形で愛おしそうに遊んでいるのを見ると、これらのおもちゃもいつかどこかに消えてしまったり遊ばなくなったりするのだろうなと思って、親ながら一足早くノスタルジックになるものだ。「おもちゃのくにのゆきまつり」は、そうした「大事な物」とのつながりを見極めるトライアウトみたいな場所だったのかもしれない。

ではではそう考えるとクマの人形はどうしてこのおもちゃのくににたどりついたのか、そしてどうしてウサギの人形にこのタイミングで招待状が届いたのか、など描かれていない謎についてさらに頭も巡らせた。解釈はいろいろ可能だろう。まあこれ以上私の愚行をここで晒したりはしない。ただ間違いなく、本書には、自分の懐かしみの感覚(それ自体がもうすでに懐かしいものだが、、)を刺激する不思議な魅力があった。なお我が子にはこうしたノスタルジックな感覚というのはまだまだ存在しないように感じた。

絵本の紹介「うみの100かいだてのいえ」

先日子供を連れて水族館に行った。といってももうすでに覚えているだけでも4館くらいに行っているのでまあ子供も慣れたものである。イルカが近寄ってきてもびっくりして泣き出すなんてことはない。ただ、慣れたといっても、海の生き物が非日常的なものであることもまた間違いのない事実だ。マンボウみたいに何を考えているのかもよくわからないがマイペースな存在感を見せつけるような生き物は身の回りにあまりいない。ということでまだまだ新しい発見はたくさんあって、子供らしい素直な感嘆を見せてくれると遠くまで来たかいがあったと親としては嬉しくなったりする。

 

振り返れば私自身のこれまでも、海を身近な存在と呼べるような環境にはなかった。父は釣り好きだが、それは私の性には合わない。スキューバダイビングもしない。海水浴はせいぜい2年に1回くらいいそしむ程度だ。10年近く前の北海道旅行で4時間程度の遊覧船に乗ってイルカに一回遭遇できたことはある。水族館も子供ができる前はおおよそ計10回ほどしか行っていない。ということで海の経験値は実は我が子と大差ない。

で、まあそれに見合った程度の知識しか実際ないわけだが、それでも多くの生き物をテレビや本その他の機会に目にすることも当然多々あった。それらの記憶と照らし合わせながら水族館での鑑賞をすることで、私にとってもなんとなく海の生き物が馴染みのある存在にはなっている。

 

こんなことを書いたのは、その先日の水族館で、子供が本から学んだ知識を披露してくれて感心したということがあったからだ。ということで今回はそのもとの本の紹介。

うみの100かいだてのいえ

言わずと知れた(?)「100かいだて」シリーズの海底編だ。本を縦開きにして、100階建ての建物を各見開きに10階ずつ描いて、それを主人公が順番に訪問していくというのがそのスタイルだ。そのアイデアがなかなか画期的なのはそうとして、この本の魅力は見開き各10階ごとに暮らしている様々な生き物の生活の様子を細かく生き生きと描いていることにあるだろう。海バージョンの本書でも、イルカやクラゲ、チョウチンアンコウなどが登場し、それぞれの「家庭」で赤ちゃんが育てられていたり、お茶を飲んだり、読書をしたりといった姿が、その生き物の特徴にちなんだ形で描かれる。子供は、そうした様子を見ると想像力がかきたてられるのか、本書もオリジナルの「100かいだてのいえ」もとても気に入っていて、それこそ毎日のように読んでいる。

 

そういうわけで、この本に出てくる生き物達は子供にとって、とても馴染みのあるものとなっている。先日の水族館でも、本書に登場していたウツボをみて「ウツボだ」と言って少し怖がるような様子を見せたり、タコを見たら「スミを吐いたりするかなあ」と言ったりした。こうした様子を見ると、こうやって子供というのは知識をつけていくんだなあと思った。

絵本の紹介「おたすけこびととあかいボタン (児童書)」なかがわ ちひろ (著), コヨセ ジュンジ (イラスト)

絵本を毎週一冊は紹介したいと考えていたが早くもギャップを作ってしまった。絵本はまだまだたくさん読まされているので紹介したい本はいくつもあるのだが、どれを選ぶべきかは悩ましい。絵本を読んだ後にはそれぞれいくつかの感想を抱くのだが、それはそれこそ絵がキレイ・個性的だなあというものや、奥深い内容だったなあというものから、なんかよくわからんが子供に受けたなあというものまで様々だ。なので、本当にこの絵本はわざわざ見知らぬ人に紹介するほど完成度が高いのか、みたいに思い始めると何かと躊躇する。それに対して、私がいわゆる本を自分のために読む場合、いかに自分の考え方にプラスの作用があったかということに評価は尽きるので単純だ。たぶん絵本は、その幼児向けで分量に制約があるという性質から、ポイントを絞った一点勝負みたいな作品が多くなるのだろう。野球で言えば4冠王のヤクルト・山田ではなくて巨人の鈴木や昔の川相みたいなキラリと光る選手達といった感じだろう。それぞれの本にはそれぞれのクセがあるので、それについての感想を気張らず書いていくということでやっていきたい。

 

ということで今回紹介するのは「おたすけこびととあかいボタン (児童書)」だ。

初見でこの本を読んでいたときは正直流れがよくわからないまま、ただ文章を読んでいた。終盤に差し掛かってやっと話の流れがつかめた感じだった。かいつまんで内容を言えば、人形のウサギの目(である赤いボタン)がとれてしまって、家のどこかに消えてしまったので、それを「おたすけこびと」達に捜索してもらうというものだ。で最後はめでたくみつけてもらう。何てことはない、極めて単純だ。ではなぜこんな単純な話を追えていなかったかというと、この絵本にはテキストがほとんどないからだ。上の私の説明程度の説明さえろくに登場しない。確かに最初の場面は、こびとと、依頼人であるお母さんとの電話で、「もしもし赤いボタンをなくしてしまって、、」みたいなことから始まっている。次のページではこびとたちが「さあ仕事だ」とか言いながら出動する。が、テキストはこれだけで、何が何だかわからない。そんな調子で最後まで「あったあった」とか「やったぞ」くらいの小さなセリフ文が各見開きページに一つずつ提示されるだけだ。初見ではそもそもこびとがこびとであることさえ認識していないので、何のことかさっぱりわからないのだった。

が、途中でぼんやりわかってくる。どうやら、たくさん現れた小さな人間たちが「こびと」であること、そして彼らは何かを探しているらしいこと、それが家の中でなくなった赤いボタンであることがつかめてくる。その理解は、ほとんど絵に依拠したものだ。

 

そういうことだったのね、ということで、我が子にリトライをお願いして続けて2回目を読んだ。次は、少し解説を加えながら。さらにいくつかクイズも出しながら(子供の理解を試すために簡単なクイズを出すのが最近の私の流行りだ)。

この絵本の絵のカットは独特だ。なぜなら視点がこびとのものだからだ。最初こそ部屋全体の構図が示されるが、そのあとはボタンの落ちていた棚の隙間とかにイラストはクローズアップされる。なので最初はどこを描いたものなのかもよくわからない。が、この視点こそがこの本の醍醐味であることに後から気づかされる。子供と一緒に、これが部屋のどこなのかを、最初の全体図と比較しながら議論しながら絵本を読むことができる。部屋のここにあるゴミ箱がこびと視点ではここに見えているんだね、みたいな会話をしたりする。

結局このボタンは捜索の途中で家の水槽に入ってしまう。最後には水槽の魚を別の鉢に移してから水を抜いて、そこの砂を掘り返してボタンをみつけるという大掛かりなものになる。それぞれの場面もやはり説明文はほぼ皆無だ。これについてどういうことか子供とコミュニケーションをとりながら読み進んだ。

2回目の朗読で、私も子供も理解が進んだ。また間をおいて3回目、4回目と読んでいった。それぞれまだよく理解できていないところは適宜コミュニケーションをとりながら。

 

ということで、この本は親にとってはディマンディングな絵本だ。子供の年齢にもよるだろうが、ある程度言葉のわかっている子供にとっても本書のテキストと絵だけで理解するのは難しいのではないだろうか。文は極小だし、絵もこびとの視点でトリッキーなものだからだ。なので、その内容を理解したいと思った場合、どうしても親による解説は必要になるだろう。ただ一方で、そうしたトリッキーな構図と過少なテキストのおかげで、謎解きのような楽しみが得られる。それを通して、本を朗読する大人と子供の間で楽しいコミュニケーションをさせてもらえる、本書はそんな絵本だった。どうやらこの本はシリーズものらしく、あるいはその2冊目として読むとこうした感想もまた違ったものになるかもしれないが、別のお話も読んでみたいと思った。

 

最後に、冒頭に本が自分にプラスになるかどうかが私の本の評価軸であると書いたが、絵本についても子供にとって何かプラスの発見があるかどうかというのは一つの視点になり得るだろう。そういう意味でも、「こびと視点のイラスト」をじっくり見せていくこの本のスタイルは子供にとっても新鮮なものであったようで、良かったと思う。